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ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)は、第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。日本海軍の機動部隊とアメリカの機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。ミッドウェー海戦はミッドウェー作戦(MI作戦)の前哨戦であり、この敗北で同作戦は中止された。 == 日本の作戦決定の背景 == === ハワイ攻略作戦の着想 === 大東亜戦争開戦前、日本海軍は対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた〔#亀井戦記72頁〕。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた〔#亀井戦記73頁〕。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年(昭和3年)海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は大東亜戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している〔#海軍驕り132-133頁。1941年1月に及川に提出した意見書より。〕。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍・アメリカ国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知の上でもアメリカに対し、戦争で勝利を収めるためには積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた〔#勝つ戦略負ける戦略97頁〕。 アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた〔「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.9-10〕。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した〔#戦藻録(九版)74-76,87,93頁等「第三節、米機動部隊の牽制作戦」〕。 日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた〔#勝つ戦略負ける戦略108-109頁、#海軍驕り193-194頁〕。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。その結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ攻略を見据えた作戦計画を立案した〔#戦藻録(九版)68、72頁(1月14日・27日等)〕。そこで、ハワイ作戦の前段階として浮上したのがミッドウェー島の攻略であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミッドウェー海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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